1990年代から時計をフィールドに取材・執筆活動を続けるジャーナリストの名畑政治氏は、実はタイメックスの熱烈なファン。これまでの記事ではタイメックスの原点である「ウォーターベリー・クロック・カンパニー」や販売会社の「インガーソル」、日本では知られていないウェスタン・ヒーロー「ホパロング・キャシディ」のウォッチや、アウトドア・ウォッチの原点「オリジナル・キャンパー」、1980年代に起こった空前のサファリ・ブームのさなかに登場した名作「サファリ」などについて紹介いただきました。今回は、40周年を迎える「アイアンマン」をテーマに、解説いただきました。
文/名畑政治
『アイアンマン』とは文字通り『鉄の男』。鋼鉄の如き屈強な肉体と意思、能力を持つ人の代名詞として、今では男女を問わず、あらゆるジャンルで用いられている。この『アイアンマン』という言葉を、より広く知らしめたのが1978年にハワイで開催された世界初の『アイアンマン・トライアスロン』大会である。
そのきっかけとなったのが、アメリカ海軍の軍人たちが宴会の席で「マラソンと遠泳、自転車によるロードレースのどれが最も過酷か?」と議論になったものの、結論が出ず、そこで、「これらを全部まとめてやってみよう」となったことだという。
この時のレースで行われたのが、遠泳3.8km、ロードバイク180km、ラン42.195kmというものであり、これがやがてアイアンマン世界選手権大会へと発展。現在では世界各地でハワイでの本戦出場をかけてレースが開催されるようになっている。
この過酷にして新しい競技に対応する計時機能を搭載した腕時計型デバイスとしてタイメックスが開発したのが1984年に発売された、その名も『アイアンマン』であり、現在では「世界で最も売れたスポーツウォッチ」と呼ばれるベストセラー・モデルになっている。

その誕生のきっかけは、当時のタイメックスにおけるデジタル商品部マネージャー、マリオ・サバティーニの発案だった。当時、スポーツウォッチといえば、時計の基本である時刻を表示することに加え、せいぜいストップウォッチ機能が付加されたシンプルなものが主体だった。ところがマリオ・サバティーニは当時、話題となっていた『アイアンマン・トライアスロン』という競技に適合する、これまでにない新しいスポーツウォッチを作りたいと提案したのである。
自身がランナーでもあったサバティーニは、ラップ(周回および一定距離)ごとのタイムを知ることの重要性を説き、ラップ計測機能の搭載を主張。そのため電子回路の開発も既存モジュールの流用ではなく、新規開発が求められ、加えて外装デザインにおいても前例のないユニークなものをデザイナーであるジョン・T・フーリハンに要求したのである。
その結果、誕生したのが『アイアンマン』の前身モデルとなる『トライアスロン』である。
このモデルではストップウォッチを操作するプッシュボタンは従来のようなケースのサイドではなく、時計の表面である液晶ディスプレイの下に装備した。このほうが走りながらでも操作しやすいという判断であった。
またディスプレイを取り巻く形状がスクエアではなく、上部が円弧を描き、下部がフラットになった独特なフォルムを採用。これを横に見るとアルファベットの「D」に見えることから、後に"Dシェイプ"呼ばれて親しまれることとなった。
とはいえ、このような個性的なフォルムと高い機能を備える電子モジュールを融合させ腕時計として成立させるには多大な努力と創意が必要だった。たとえばアイアンマン・レースでは、海での3.86Kmの遠泳から始まるが、これに耐える100mの防水機能の保持と、泳ぎながらのプッシュボタン操作の際にも、わずかな浸水も許さない強固な構造の実現にフーリハンは心血を注いだという。
こうして最初の『トライアスロン』が開発されたものの、社内での評価は最悪。販売部からは「なんと不格好な!」と酷評された。しかも価格も高かった。当時、一般的なデジタルウォッチは10ドルほどで買えた時代に『トライアスロン』は30ドル。誰もが冷ややかな目で見る中、発売と同時に爆発的に売れて大ヒット。そこでマリオ・サバティーニはアイアンマン大会の主催者である『ワールド・トライアスロン・コーポレーション』に働きかけ、彼らが商標登録をしている『アイアンマン』の使用権を獲得。これにより、『トライアスロン』の改良版となる1986年発売の新作が『アイアンマン』と命名された。

この『アイアンマン』。サバティーニからのリクエストで、中身は『トライアスロン』ではあったが、外装はまったくの別物となった。ケースに色を加え、ストラップもゴツゴツとしたものに変更。だが、『トライアスロン』最大の特徴であるプッシュボタンはトップのままとして機能を継承。これによって『アイアンマン』はタイメックスにおけるひとつのウォッチ・シリーズから、『アイアンマン』というブランドへと脱皮したといっても過言ではないだろう。それは1986年のことだった。
このモデル(『トライアスロン』と『アイアンマン』)が実現したのは世界初の8ラップ・メモリー機能。そして『アイアンマン』ではブラック一辺倒だったデジタルウォッチの世界にカラーケースを持ち込んだことも大きな功績となったが、『アイアンマン』という新しい競技に即したキャッチーなネーミングがなによりも人々の心を捉え、トライアスロンに参加するアスリートはもちろん、スポーティでカジュアルな腕時計を求める世界中の人々に愛用される、アイコニックなタイムピースというポジションをも獲得したのだ。
『アイアンマン』を生んだデザイナー
ジョン・T・フーリハンとは?
ノートルダム大学卒業後、1966年にGMに入社。その後、1970年~1971年はタイプライター/計算機器メーカーのスミスコロナ社でインダストリアルデザイナーとして在籍したが、1972年にGMに復帰し、1978年まで同社で活躍。そして1979年にタイメックスに移籍し、2001年までデザイン部門で活躍した。
1986年に誕生したタイメックスの大ヒット作にしてスポーツウォッチの代名詞となった『アイアンマン」。その外装デザインを担当したのが、当時のタイメックスに在籍したデザイナーのジョン・T・フーリハン(John T. Houlihan)である。
ここでちょっと彼のデザイナーとしての経歴を見てみよう。
ジョン・T・フーリハンがデザイナーを目指したのは、なんと中学生の頃! 当時、GM(ゼネラルモーターズ)が主催する『フィッシャー・ボディ・クラフツマン・ギルド』という少年カーデザイナー育成コンペがあり、これに興味をいだいたフーリハン少年は応募を目指すが、模型作りが苦手で応募モデルを一台も完成できずにいた。そこで彼の父親は『インダストリアルデザイナーになればいい』とアドバイスしたのである。彼の父親はケミカルエンジニアとしてデュポン社(米国最大の総合化学メーカー)に勤務した後、老舗の玩具会社に転職し、開発部門の部長としてボードゲーム開発を担当。いくつものヒット作を連発した人物だった。
そのアドバイスに従い、美大への進学を希望したフーリハンだったが、父は「美大ではなく、総合大学で幅広い教育を受けろ」と主張。そこでフーリハンは米国インディアナ州にある米国トップクラスのカトリック系総合大学であるノートルダム大学に進み、ファインアート(純粋芸術)を専攻。さらに工業デザインの勉強にも励む。
しかもノートルダム大学は、カーデザイン界で伝説的な存在であるデザイナー、ヴァージル・エクスナーと彼の息子の出身校ということで、エクスナーの多額の寄付によって学内に立派なカーデザイン・スタジオまであった。そこでフーリハンは少年時代の夢だったカーデザインの世界にのめり込んでいったのだ。
これによりフーリハンは学生時代にGMから直接スカウトを受けて1966年に入社。彼がGMで働いた時代はアメリカにおけるカーデザイン黄金期であり、GMのスタイリング部門はインダストリアルデザインを目指す若者にとって憧れの的。中学時代の父親のアドバイスがまさに的中した。
この恵まれた環境に身を置き、カーデザインの分野で存分に腕をふるったフーリハンは、1979年にタイメックスに移籍。これもまた自らの意思というより、才能を見込んだことからのスカウトだった。仕掛けたのはGM時代の同僚でタイメックスのデザイン部ディレクターに就任したばかりのジョン・マリスカス。しかしフーリハン自身は時計とは無縁のため、何ができるか不安だった。ところが実際にタイメックスに入社したところ、時計のデザインとカーデザインは限りなく近いと理解する。彼自身の言葉を引用しよう。
「スケール、立体性、スタイリング性。両者ともこの3つが決め手となる。スケールとは完璧な均衡のこと。針のサイズとフェイス、厚みと幅とが絶妙のバランスを取る。クルマの場合、実寸大の設計図を書いたこともあるが、通常は30センチ四方程度のパッドにスケッチする。各パーツも比率を完璧に描かねばならない。かたや時計はその逆で、直径30mmのフェイスを何倍にも拡大したスケッチで伝える必要がある。ある意味、時計の方がクルマよりも難しい。狭い面積の中でデザインやフォルムの威力を発揮しないとならないからだ。
立体性とは、第三角法を使って平面のスケッチでは見えない角度からのデザインを行うこと。今ならパソコンが3Dでデザインしてくれるがね。そしてスタイリング性。どれほど機能が優れていようと、ルックスが良くなければ誰も買わないのはクルマも時計も同じだね」
(ジョン・T・フーリハン)
フーリハンがタイメックスに移籍した当時は、機械式からクォーツへの移行期であり、デザイン面においても針による時刻表示からデジタル表示へと大変化する時代を迎えていた。
タイメックスにおいても、まだ機械式ムーブメントが一部のモデルに採用され、デザインワーク自体も手書き。これがパソコンを利用したものへ進化しはじめたのが1988年だが、当時のコンピューターはサン・マイクロシステムズ製でサイズは小型冷蔵庫ほど。デザイナーもマウスとキーボードの違いもわからず、パソコンでのデザインに慣れるまでは苦難の連続だったという。この大変革期に身を置き、それまでとはまったく異なるデジタル表示のスポーツウォッチを生み出したフーリハンの努力と才能は、今考えても驚くべきものだ。

また、「デザイン」に対する正しい理解が浸透していなかったことも障壁になったとフーリハンは述懐する。
「こんなエピソードがある。まだ入社したての頃だ。デザイン部の上司に連れられ、ある重要な会議に出た。マーケティング部やエンジニアのお偉いさんや副社長など錚々たる顔ぶれだ。とあるデザインを巡って議論が白熱した挙げ句、私の上司が全員を向こうに回して熱く説得にかかるのだが、誰も聞く耳を持たない。というのもデザインとは単なる「お飾り」という認識が当時まだ根強く、今と違ってデザイナーへの風当たりは強かったんだ。『デザイナーのくせに、なぜこれが正しいとわかるのか』と激しく詰め寄られた上司は、相手の目をまっすぐ見つめ、上に向けた両手を前に突き出して穏やかにこう言った。『私にはデザイナーの"資質"が備わっているので、わかるのです』。それきりもう誰も反論しなかったんだよ!」(ジョン・T・フーリハン)
つまり「デザイン(design)」とは、単に色や形を決める作業ではなく、ある目的を達成するために問題を提起し、その解決策を計画する「設計」をも含めた概念なのである。
その意味でフーリハンは『アイアンマン』のカラーとフォルムを考案すると同時に、その機能性までもフォルムの中に組み込むことで、世界でもっとも売れた伝説のスポーツウォッチを完成させたのである。

次回は、タイメックス アイアンマン物語② 21世紀の「アイアンマン」を テーマにお届けします。
