ジョン・T・フーリハンという名前をご存じだろうか。1979年から2001年にかけ、タイメックスで活躍した伝説のデザイナーだ。

1970年代のクォーツムーブメント到来によって時計業界が激動の時代に突入する中、アメリカの時計メーカーで唯一サバイバルを遂げた、タイメックス。

当時デザインチームを率いたフーリハンとは、一体どんな人物なのだろう?あの名作ウォッチはどのようにして生まれたのか?現在コネチカットの自宅で穏やかな日々を謳歌するフーリハン氏に、話を聞いた。



photo courtesy_ John T. Houlihan

interview_ デヴィッド・G・インバー / David G. Imber

text_ 吉田実香 / Mika Yoshida



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左・右下:デザイン中のジョン・T・フーリハン氏。

右上:Ironman®のスケッチ。1994年10月30日の日付が見える。



Vol.1 伝説の時計デザイナーの少年時代。

BEGINNINGS: PASSION TURNS TO PROFESSION



 時計デザイナー、ジョン・T・フーリハンを語る際に欠かせないのが、カーデザイナーとしての経歴だ。1950年代後半から70年代初頭は人呼んでカーデザインの黄金時代。フーリハンが1966年に入社したゼネラル・モーターズ社(以下GM)スタイリング部門は、デザインを目指す若者にとって当時まさに憧れの頂点だったという。

 その花形カーデザイナーがタイメックスの時計デザイナーに転身したのは1979年のこと。以来、世界で最も売れたと言われるスポーツウォッチ「Ironman®」や、スマートウォッチの先駆け「DATA LINK」を始めとする数々の時計を手がけ、タイメックス新時代の一翼を担っていったのである。

 御年76才。ほぼ同年生まれの著名人にはジョージ・ルーカスやミック・ジャガー、ロバート・デ・ニーロといった顔ぶれが並ぶ。彼ら同様、時代を駆け抜け、普遍的な作品を世に打ち出してきたフーリハン氏にまずは少年時代の話から伺った。



ーーいつ頃からデザイナーを目指したのでしょうか?

ジョン・T・フーリハン(以下H)「中学生の頃だ。GMの少年カーデザイナー育成コンペ〈フィッシャー・ボディ・クラフツマン・ギルド *1〉に興味があったのだが、あいにく模型作りが苦手でね。一台も完成できないのにあきらめきれない私に、父親が『インダストリアルデザイナーになればいい』と。できすぎた話のようだが、本当にそう言われたんだよ(笑)」



ーーお父さんの職業は?

H「ケミカルエンジニアとしてデュポンに勤務した後、老舗玩具会社ミルトン・ブラッドリー *2に転職した。化学部門のチーフを経て、R&Dの部長としてボードゲーム開発に長年携わり、《Battleship》や《Stratego》といった人気ゲームを大ヒットさせた。夏休みともなれば、私ら兄弟はまだ開発中の試作ゲームをやらされたものだ。楽しかったね」



ーーデザイナーを目指しながらも、美術大学ではなく名門の総合大学ノートルダムに進学されました。

H「美大への進学を切望したが、総合大学で幅広い教育を受けろと父に断固反対された。ノートルダム大学ではファインアートを専攻し、工業デザインの勉強に励んだ。1950年代で最も卓越したカーデザイナー、ヴァージル・エクスナー *3が自分と息子の母校ということで多額の寄付を行い、カーデザインの立派なスタジオも学内に設立された。私はそこでカーデザインの世界に魅了されたんだ」



ーー在学中にGMにスカウトされたのですよね?

H「そうなんだ。スケッチなど技術的なスキルはお粗末だったがね(笑)。GMにこう言われた。『わが社のデザイナーは美大出身者ばかりだ。彼らは技術面では優れているが、いま我々が求めているのはより広い教養や知識を身につけた学生である』と。ノートルダムで授かった教育を評価してくれたのだと思う」



ーーお父さんの慧眼が証明されたのですね。1966年に入社し、タイプライター/計算機器メーカーのスミスコロナ社で工業デザイナーとして在籍した1970年~1971年をはさんで1978年までGMで活躍されます。デザイン開発に携わられたのは、シボレー・ヴェガ・ステーションワゴン、'71ビュイック・リヴィエラなど。GM時代はいかがでしたか?

H「デイヴ・ノース、バーニー・スミス、デイヴ・ロッシ、ゴードン・ブラウンといったカリスマ達から直々に指導する機会に恵まれた。デトロイトきっての、つまり世界最高のカーデザイナー達の薫陶を得ることができたのはかけがえのない経験だったね」

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※ ボートテイルの愛称で知られるビュイック・リヴィエラの特徴的な後部デザインとそのスケッチ。



GMのカーデザイナーから、タイメックスの時計デザイナーへ



ーー1979年にタイメックスに引き抜かれ、時計デザインの世界に飛び込みます。

H「デザインマネージャーとしてスカウトされた。当時デザイン部の新ディレクターに就任したのがGE時代の元同僚ジョン・マリスカス。彼じきじきの指名だった。時計の世界とは無縁だったので、自分にいったい何ができるだろう?と正直戸惑った。だがタイメックスに入って驚いたね。時計デザインとカーデザインが実は限りなく近いものだったからだ」



ーーどのあたりが共通しているのでしょう?

H「スケール、立体性、スタイリング性。両者ともこの3つが決め手となる。スケールとは完璧な均衡のこと。針のサイズとフェイス、厚みと幅とが絶妙のバランスを取る。クルマの場合、実寸大の設計図を書いたこともあるが、通常は30センチ四方程度のパッドにスケッチする。各パーツも比率を完璧に描かねばならない。かたや時計はその逆で、直径30mmのフェイスを何倍にも拡大したスケッチで伝える必要がある。ある意味、時計の方がクルマよりも難しい。狭い面積の中でデザインやフォルムの威力を発揮しないとならないからだ。

 立体性とは、第三角法を使って平面のスケッチでは見えない角度からのデザインを行うこと。今ならパソコンが3Dでデザインしてくれるがね。そしてスタイリング性。どれほど機能が優れていようと、ルックスが良くなければ誰も買わないのはクルマも時計も同じだね」



ーー1980年代は時計は機械式からクォーツへ、またデザインにおいてもデジタルが台頭した変革の時代でした。

H「当初タイメックスは、クォーツ導入で若干遅れを取っており、80年代になってもまだ機械式を一部扱っていた。クォーツムーブメントは主に日本のシチズンから輸入し、デザイン部の発案で「Q」を象った六角形のロゴをあしらい、これはクォーツ時計であると誇示したものだ。やがて全てクォーツとなり、ロゴの必要もなくなったがね。手描きからパソコンへの移行は1988年。当時デザイナーはマウスとキーボードの違いもわからず、パソコンでのデザインに慣れるまでは苦難の連続だった(笑)。会社が導入したコンピューターは小型冷蔵庫ほどもあるサン・マイクロシステムズ。OSはエイリアスだった」



ーーそこから一転、多くのデジタル製品の開発を手がけられたのが興味深いです。ちなみに時計デザインに対する意識に、当時と今とでは違いはあると思われますか?

H「こんなエピソードがある。まだ入社したての頃だ。デザイン部の上司に連れられ、ある重要な会議に出た。マーケティング部やエンジニアのお偉いさんや副社長など錚々たる顔ぶれだ。とあるデザインを巡って議論が白熱した挙げ句、私の上司が全員を向こうに回して熱く説得にかかるのだが、誰も聞く耳を持たない。というのもデザインとは単なる「お飾り」という認識が当時まだ根強く、今と違ってデザイナーへの風当たりは強かったんだ。『デザイナーのくせに、なぜこれが正しいとわかるのか』と激しく詰め寄られた上司は、相手の目をまっすぐ見つめ、上に向けた両手を前に突き出して穏やかにこう言った。『私にはデザイナーの"資質"が備わっているので、わかるのです』。それきりもう誰も反論しなかったんだよ!(笑)」



ーーなるほど、さまざまな歴史を重ねながら、タイメックスは作る時計から「デザインする時計」へと進化していったのですね。

次回はフーリハンさんが手がけられた時計についてお話を伺います。



*1 1930年代にGMが始めたデザインコンペで、1968年まで開催された。10代の若者が大学の奨学金に相当する賞金を狙い、「夢の車」のスケール・モデルを設計および製造し、GMのデザイナーやエンジニアが審査員を務めた。世界最大規模のコンペに発展し、数多くの優秀なデザイナーやエンジニアを輩出、育成した。

*2 1860年に創業したアメリカ最大のゲームメーカー。「人生ゲーム」や「スクラブル」などで知られる。1984年に買収され、現在はブランド名のみが残る。

*3 カーデザインの世界で伝説的デザイナーとして知られる人物。スチュードベイカーで活躍後クライスラーのチーフデザイナーとなり、「一億ドルのデザイン」と評された初代クライスラー300をデザインした。